プロフィール

はじめまして。

カウンセリングルーム「稲穂」へお越しいただき、ありがとうございます。
心理カウンセラーのじろうです。

☐ 漠然とした生きづらさを感じている方
☐ 職場で息苦しさを感じながら頑張っている方
☐ アダルトチルドレンで苦しんでいる方
☐ HSPの生きづらさで悩んでいる方
☐ お子さんの不登校・ひきこもりで悩んでいる方
☐ うつ状態から抜け出せずに苦しんでいる方
☐ 自分らしく生きられていないと感じる方
☐ 自分の幸せが何か分からない方

など、様々なお悩みや苦しみを抱えた方へ向けて、「あなただけの幸せを一緒に探すカウンセリング」を行っております。

僕は、学生時代は、不登校・ひきこもり、社会人では、うつを経験してきました。
また、幼少期から、生きづらさ(HSP ・アダルトチルドレン)を抱えてきました。
現在は、それらを乗り越え、自分らしい生き方を実現し、カウンセラーとして活動をしています。

過去には、自分自身がカウンセリングを受けた経験もありました。
しかし、その時の経験はとても苦しいものでした。

職場でうつになり、会社の指示で、初めて受けたカウンセリング。
僕は警戒心が強く、とても緊張を感じやすいタイプで、どこの誰とも分からない人に、最初から本音を話せる人間ではありませんでした。

また、他にも色々と疑問に感じることがあり、このカウンセラーさんと二度と会わなくて良いように「もう大丈夫ですよ」と伝えるべく、わざと明るく振る舞ってしまいました。

カウンセリングは、カウンセラーとの相性が何より大切です。
カウンセラーと相談者さんとの間に、信頼関係が築けるかどうかで、カウンセリングの結果も変わってしまいます。

つまり、相談者さんが「何を」相談するかよりも、「誰に」相談するかが、とても重要です。

だから、まずはプロフィールをお読みいただき、僕の人となりを知っていただきたいです。
ただ、ありのままをお伝えしたあまり、とても長いプロフィールになっています。

もくじから気になるところからでも大丈夫ですので、お読みいただけると嬉しいです。

その上で「この人になら、相談をしても良いかも」と思えた方は、ぜひお声掛け下さい。
あなたとのご縁が繋がり、少しでもお役に立てましたら幸いです。

もくじ

幼少期〜中学生時代

周りからの評価が、「自分らしさ」だと思いこんでいた

両親と3歳上の姉がいる、4人家族の中で育ちました。
父の転勤で、小学生になる前までは、各地を転々と過ごしていました。

物心がついた頃から大人になるまで、
親族、友人の親、小・中・高の先生方など、僕と関わる大人の人からは、
「内気な子、恥ずかしがり屋さん、人見知り、繊細、静かな子、気持ちが弱い、気にしい、感情が表に出ない、何を考えているか分からない」などと言われていました。

いつも同じような言葉を言われてきたので、これが「自分らしさ」なんだとずっと思い込んでいました。
そして、これらの評価に対し、とてもネガティブに受け取ってしまい、「ダメなこと」だとずっと苦しんできていました。

30年以上経ち、カウンセラーとして心理学・心理療法を学ぶ中で、
いつもこのように言われてきたのは、
「HSP(※1)気質だったから」
「AC(※2)の要素もあったから」
と理解することができました。
そして、今では過去の自分自身の生きづらさに納得し、受け入れることができました。

(※1) HSP = Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)
一言で表すと「とても繊細な人」
▶先天的に感受性が強く敏感な気質を持った人のこと

(※2) AC = Adult Children(アダルト・チルドレン)
一言で表すと「子ども時代を子どもらしく過ごせなかった人」
▶子ども時代に親や他者との関係の中で負った心の傷が、現在の生きづらさや人格形成に影響している人のこと

僕から見た姉は「太陽」みたいな存在で、「姉がいるだけで、その場が明るくなる」そんな人でした。
また、姉は演劇を習い市の文化会館で舞台に出演したり、英語を習い海外滞在など、自分のやりたいことを見つけては、どんどん実現させていくとても行動的な人でした。
姉のマネをして英会話を学んだこともありましたが、「言葉の壁」の前に、「人との心の壁」があり、すぐに挫折しました。

両親に対して、姉は思ったことを口にして、よく母とケンカをしていた姿を覚えています。
一方、僕は思ったことがあっても、口にはしませんでした。

自分まで好き勝手言ったら、家族を困らせるのではないか。
だから「自分は良い子でいなくてはいけない」との思いがありました。
そんな思いを抱えていたため、両親と言い合いになった記憶はほとんどありません。

それを成功体験だと捉え、家庭内では「自分の思いは心に隠して、何も言わないことが良いこと」だとずっと思っていました。

人前で失敗をして恥ずかしい思いをするなら、何もしない方が良い

小学生1年生の時、算数の授業で手を挙げて発表をしました。
自信満々で回答をしましたが、間違っていました。
それを周りに笑われたことで、恥ずかしさがこみ上げてきて、消えてしまいたいくらいでした。

「失敗すると周りに笑われるんだ」
「目立つことすると恥ずかしい思いをするんだ」と、
人前で自分を表現することが、途端に怖くなりました。

「失敗するくらいなら、何もしない方が良い」と思い、
家庭の外でも、自分から意思表示をすること、自分の思いを口にすることはどんどん減っていきました。

テレビを通して初めて見たショッキングな自分の姿が、受け入れられなかった

3歳頃、当時NHKで放送されていた「おかあさんといっしょ」の収録に参加したことがありました。

小学生の時、正月に親族の集まる場で、当時のビデオ映像を見る機会がありました。
テレビの画面には、歌のお兄さんお姉さんと一緒に笑ってはしゃいでいる大勢の子どもたちが。

ただ、その中で自分だけは、周りの子たちと違い、笑うことなく終始うつむいている姿で映っていました。

自分の動く姿を客観的に見た機会は、この時が初めてで、
「周りから見た自分は、こんな姿に見えているのか…」とショックでした。

明らかに1人だけ浮いていて、異質な存在だった自分を受け入れられませんでした。
親族からは「照れ屋さんだから」などと言われたはずですが、何も耳に入ってきません。

そして、周りと違う自分はおかしい子、恥ずかしい子、人前には出てはいけない子、周りと合わせられない迷惑な子など、自分に対して強烈なネガティブな思いを抱くことになってしまいました。

「人と違うことは間違っている」「周りと一緒の方が良い」「普通と思われたい」など、知らず知らずの内に「他人軸」で生きるようになっていました。

自分の名前に込められた両親の思いと、僕が受け取っていた呪い

自分の名前は、祖父の名を取って付けられ「祖父より大きい人間になって欲しい」との両親の願いが込められていました。

ただ、同年代の中だと、古臭い感じが悪目立ちをして、とても嫌でした。

また祖父は、ガキ大将がそのまま大工の親方になったような人で、周りから「大将」と呼ばれるような豪快な生き様をしている人でした。

そんな祖父の話を聞く度に「祖父を僕が超えられるわけがない…」と思ってしまい、完全に名前負けをしている自分がとても惨めに感じられていました。

両親の願いと期待が重くのし掛かり、まるで呪いのように自分を苦しめていました。

そして、いつまで経っても、自分の名前を受け入れることができませんでした。

だから名前を呼ばれても、それが自分のことだとは思えず、
じゃあ自分は一体何者なのか?自分のことが分からなくなっていました。

「家族や周りの期待に応えるために」を軸にして、生きていた

長男として、両親、祖父母の期待に応えないといけないと思っていました。

父は、地元の名門高校を経て有名大学を卒業し、地元の優良企業に就職をしている、言わばエリートでした。
祖父からは「(父のように)お前も良い学校行って、良い会社に就職するんやぞ」と言われ、
「当然、そうしなければならない」と思いながら過ごしていました。

一方、姉は、自由気ままで、親に反発し勉強はそこそこ(自分からはそう見えていた)。
そんな姉の分まで、自分は、
「人に迷惑かけてはいけない」
「親の言うことを聞かないといけない」
「勉強ができないといけない」

と思っていました。

「自分がどうしたいか」の「自分軸はなく、
「周りが求める良い子」であろうとして、「他人軸」で生きることにますます拍車が掛かっていました。

それは、家族間だけに関わらず、学校や友人、ご近所さんに至るまで、常に周囲の顔色を伺って生きるようになっていました。

楽しくて大好きだったモノが、周りに期待をされることで苦しみに変わっていく

同級生に誘われ、小学4年生の時に野球部に入部しました。
5年生からレギュラーになり、毎年その年代で一番期待されている選手が付ける背番号を渡されました。

それから野球が楽しめなくなってしまいました。

当初は1番バッターでしたが、プレッシャーでどんどん打てなくなり、9番に降格。
打席ではいつも緊張していて、手汗がひどく、バットを振る度にすっぽ抜けそうに。

凡退や三振をする度に、周りに気づかれないように泣いていました。
いつも「チャンスで打席回さないで」と願い、自分の前の打者で試合が終わるとホッとしました。

それでも、打てない自分がなぜか試合に出続けて、チームの勝敗に影響する存在でいることに耐えられませんでした。

ある日、監督から「次の試合は、先発ピッチャーとして投げてもらうぞ」と言われました。

迎えた試合当日の朝、「お腹が痛い」と言って、試合を休みました。
実際に痛かったのですが、「皆に迷惑を掛けるから投げたくない、行きたくない」思いの方が強かったです。

そして、大好きだった野球を辞めることにしました。

「周りの人と違う」こと=「自分が間違っている」という思考になっていた

小学生時代は、アトピー体質、肌が白い、体が細い、髪がクセ毛、と周りからイジられやすい特徴を持っていました。

体質や見た目をイジられる度に、
「やっぱり自分は間違っているんだ」「これっておかしいことなんだ」
と感じていました。

そんな自分でいることを受け入れられず、どんどん自分を嫌いになっていきました。

とにかく「目立つことなく」「誰かに迷惑になることもなく」ありたくて、
自分のことに関心を寄せなくて良いし、わざわざ僕に触れて欲しくありませんでした。

だから「無の存在」になることを望んでいました。

「透明人間」や「空気」のように、何かしら存在することさえ拒否したい思いで、
何の害も影響も与えない「無」を望んでいました。

注目が集まると緊張が高まり、体が震えて何もできなくなる

姉がピアノを習っていたので、いつからか僕も習うことになりました。
市民ホールでの発表会があり、舞台で一人ずつ演奏し、自分の順番がきました。

自宅で先生の隣で演奏するのとは勝手が違い、舞台に立つと客席から大勢の視線が自分に集中するのを感じました。

その瞬間、頭が真っ白になり、手が震え、その後の記憶がありません。

演奏は大失敗に終わり、最後は先生に連れられて、その場を後にしたらしいです。
改めて「自分は本番に弱いんだ」「プレッシャーに負けるんだ」と思い知らされた体験でした。

そして、これを機に、ピアノを辞めました。

表彰され注目を浴びることは、自分にとっては恥ずかしいこと

中学に入り、テニス部に入部しました。
野球と違い、個人スポーツだったので、周りに迷惑を掛ける心配がなく、すぐに熱中しました。

結果がすぐに表れ、1年生の夏の新人戦で地区の3位になりました。
ただ、その成績が讃えられ、全校集会で表彰されることに…。

そして、半袖・半ズボンで、色白にガリガリのユニフォーム姿を披露。

きっと本来は喜ばしいはずなのに、
「何で全校生徒の前でこんな姿に…恥ずかしい…」としか思えませんでした。

自分の白くて細い体を晒されることが、とにかく恥ずかしかったです。

がんばった結果がこんなことになるのか…とテニス熱が一気に冷めてしまい、
練習をほどほどに楽しむ無気力テニス部員になりました。

家族の期待に応えるための「他人軸」の高校受験で不合格

高校受験は、家族が望む「良い学校へ進学」の期待に応えるため、父の卒業した難関校を受けることにしました。

自分が合格できるレベルだったのか、行きたい学校なのかは、よく分かっていませんでした。

ただ、そんなことは一切関係なくて、
とにかく「自分はこの学校を受験して合格しなければならない」とだけ強く思っていました。


結果は不合格。

家族の期待に応えられず、裏切ってしまったことに対し、
「今まで何のために生きてきたんだろう」と自己嫌悪に陥りました。

高校〜大学時代

高校受験に失敗し、「誰も望んでいない高校」へ行く理由を見つけられない

高校は、滑り止め合格していた進学校へ入学することに。
入学前、仕事で忙しい両親とではなく、祖母と一緒に制服の寸法合わせで高校に行く機会がありました。

周りの家族は楽しくサイズ合わせをしている中、
ワクワクも何も感じない自分がいました。

「何で自分はここにいるんだろう?」
「この高校へ何しに行くんだろう?」

と、疑問が湧いてきました。

誰も望んでいない高校へ行く理由、
そんなものあるんだろうか。

そんなことばかりを考えていました。

入学後、同級生は大学進学の話や将来の夢を語っていましたが、
自分には将来の夢や未来への希望など、何も持ち合わせていませんでした。

今ここに居るのは、家族が喜ぶと思って受けた高校に落ちてしまったから。
ただ、それだけのこと。

この思いを引きずり、高校へ行く理由も目的も見出せなくなっていました。

高校を1ヶ月で不登校、行けない理由は答えられずに中退へ

高校へは満員電車で通学でした。
人が密集する空間に息苦しさを感じていました。

耐えられずに途中下車をしたり、電車に乗ることができず、そのまま引き返すこともありました。

ふと、父はこの生活を何十年も続けているのかと気づき、
尊敬とともに、「自分にはこの働き方は無理だな」と感じたことがありました。

学校に行く理由は相変わらず見つけられず、苦しい思いをしながら高校へ通うことも難しくなっていました。

5月中頃には、完全に学校へ行けなくなり、不登校になりました。
そして、そのまま夏休みにひっそりと中退しました。

親から、学校へ行けないことに対し「何でなの?」と聞かれましたが、
当時の自分には明確な理由は分かりませんでした。

「言ってくれないと分からないよ?」と言われても、自分の中でも消化できていない気持ちをどう表現したらよいのかも分からず「分からない…」としか答えられず。

親が自分の気持ちを理解してくれないというよりは、家族の期待を何度も裏切って申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

家族の期待と信頼を失い、「普通の高校生」にもなれず、自分が何者なのかも分からない。
そんな状況で「今後どう生きていけばよいのか」分からなくなっていました。

高校中退後、昼夜逆転のひきこもり生活

高校中退後、飲食店のキッチンでアルバイトを始めました。
そば打ちをしたり、天ぷらを揚げたり、初めての経験に楽しさがありました。

ただ、アトピー体質の影響か、洗い場の洗剤で手や腕がひどく荒れてしまい、
すぐに退職することになりました。

「何をやっても上手く続かない…」自分の体質を恨んでしまいました。
その後は、ひきこもり生活に。

当時、普及し始めたインターネットでネットサーフィンの日々。
気づけば、ネット月額料金が10万円近くまでになっていました。

さすがに両親にも怒られ、夜中だけ通信料金が安くなると知り、
共働きの両親が日中は家に居ないことを良いことに、昼夜逆転のひきこもり生活を過ごすようになりました。

諦めていなかった両親と、通信制高校への進学

ひきこもり生活も半年ほど経過。
目的のない日々を過ごしていましたが、両親は色々と考えてくれていました。

父が東京にある通信制高校の見学会に連れ出してくれて、母は北海道に連れ出してくれました。

東京では、高校の説明会へ行き、こんな自由な学校があるんだと知りました。
北海道では、旅先の1つ「美瑛の丘」の視界一面に広がる景色に感動を。

そして、「自分の存在は、なんてちっぽけなものなんだ」と感じました。

高校を中退してから、どんどん内へ内へと引きこもっていたので、
「自分が知らないだけで、世界はこんなにも広かったのか」と外の世界に興味を持ちました。

旅の終わりに「…田舎を出て、東京に行きたい」と母へ伝えました。
そして、翌年の4月、東京の通信制高校へ入学し、1年生からやり直すになりました。

田舎の蛙、都会を知り、そして、人の深さも知る

通信制高校には、色んな年齢、色んな環境で育った生徒が集まっていました。

普通そうに見えるのに体中が傷だらけだったり、見た目が派手な子なのに弱さを隠していたりと、「誰もが色んなことを抱えて、その中で必死に生きているんだ」と知りました。

田舎では触れたことのない、多種多様な価値観に一気に触れることになりました。
まさに「井の中の蛙、大海を知らず」状態でした。

また、自分を認めてくれる友人や先生にも出会え「自分は存在していても良いかもしれない」と少し思えるようになりました。

ただ、相変わらず夢や目標は見つけることができませんでした。
両親から「焦らずに大学へ行ってみれば?」と勧められ、大学受験をすることにしました。

思い出した手汗が止まらない症状と、濡れた解答用紙

通信制高校の勉強だけでは大学に合格できず、浪人をして大学を目指すことに。

高校卒業後は実家へ戻り、1年間予備校に通い、基礎から勉強をし直しました。

予備校には、授業がない時間に自由に勉強できるように、自習室がありました。
ただ、個人ブースではなく、学校の教室みたいに等間隔に机とイスが並んでいる環境でした。

イスに座り勉強をしようとするも、
教室にいる周り人の気配が気になってしまい、勉強に集中しようと思えば思うほど、視界に入る人の動き、ページをめくる音などがどんどん気になってしまいました。

「周りに人がいる空間って、こんなに苦しいんだっけ…?」
どんどん緊張感が高まり、苦しくなり、気づいたら嫌な汗をかいていました。

ここにいると勉強に集中できないと思い、自習室には通わなくなりました。

通信制高校時代は、テストや緊張する場面がほとんどありませんでした。
だから、完全に忘れていましたが、緊張すると手汗がヒドくなる症状は治っていませんでした。

そのことに気づいてしまってからは、少しでも手汗を感じると、「ヤバイ、緊張してる」と、そのことばかりが気になってしまい、余計に手に汗をかくという悪循環に陥っていました。

「手汗でテキストや解答用紙がシワシワになっている、と周りにバレると恥ずかしい」と思い、誰にも見られないように必死で隠していました。

そして、周りとは自分から距離を作ってしまい、孤独な浪人生活を過ごしました。

大学選びは、何となく「心」に興味があったので、心理学専攻で東京にある大学を受験しました。
相変わらず手汗でふやけた解答用紙でしたが、無事に合格することができました。


平穏な大学生活を経て、就職へ

大学ではゼミやサークルの友人に恵まれたこともあり、比較的楽しく過ごすことができました。

ゼミの発表など、緊張場面では相変わらずでしたが、大学のゆるい環境が自分には合っていたと思います。

そして、通信制高校、大学と7年間を東京で過ごし、改めて分かったことがありました。

自分には「都会でスーツを着て、毎日満員電車に揺られるサラリーマン」は、絶対に耐えられないということ。

そんな思いから、就職先は東京ではなく、地元で働ける会社に決めました。

社会人時代

社会人になり初めて知った理不尽な社会と、仕事のやりがい

地元の工場で、経理職として働くことになりました。

昔ながらの体質の会社で、体育会系・縦社会・理不尽・パワハラなど、過去に自分が通ってこなかった世界がありました。

ただ、自分の内向的な性格やこれまでの経験から、不用意に相手を怒らせたり、目を付けられるような言動だけはしていませんでした。

それが幸いしてか、先輩たちに意外にも可愛がってもらえました。

職場で「仕事のできる人」を見ていると、信頼関係構築が上手な人ばかりで、
「仕事=人間関係」が大事だと気づきました。

そんな先輩をマネした影響もあり、部署や現場の人たちと友好的な関係を築いていきました。

その結果、当初は苦労した経理の仕事も、各担当と上手くやりとりできるようになり、
仕事へのやりがいや楽しさを少しずつ感じていきました。

希望しない異動で思い知らされた、サラリーマンとしての生き方

入社から6年半が経ち、仕事もプライベートも順調に進んでいました。
このまま地元で働き、結婚をして、ずっと地元で幸せに過ごせるもんだと思っていました。

ある日、上司に呼ばれました。

「大阪本社へ異動してもらうことになった。」
全く望んでいない異動だったので、ショック以外の何ものでもありませんでした。

「サラリーマンは、住みたい場所や仕事を、自由には選べないんだった…」
と、当たり前のことを、今さらながら思い知りました。

1ヶ月後、大阪へ移り「私服での自動車通勤」から「スーツでの電車通勤」へと変わりました。

電車での通勤時にふと、「都会でスーツを着て、毎日満員電車に揺られるサラリーマン」になっていると気づいてしまいました。

高校時代に思った「生きたくないはずの未来」が現実のものとなり、愕然としました。

新しい職場で感じた孤独と、自分を守るための個室

新しい職場は、自分の仕事以外には「我、関せず」で、
他人へ何も口出しはしないけれど、フォローもしない文化でした。

工場で過ごした職場環境とは真逆そのものでした。

部内のコミュニケーションは皆無で、電話が鳴らないとエアコンの音しか聞こえないような環境。
それなのに、周りからの視線だけは常に感じる異様な空間。

まるで、檻の中で1人、仕事をしているような息苦しさがありました。

予備校の自習室にいる感覚に近く、この空間にいるだけでいつも嫌な汗を全身にかいていました。

「ワイシャツが濡れて、周りに変に思われていないだろうか…」と、
定期的にトイレへ行っては確認し、汗を拭いていました。

トイレの個室に籠もり「一体何やってんだろう…」と虚しくなりました。

でも、自分の心の平穏を保つためには、この場所に逃げ込むしかありませんでした

この環境が嫌だと嘆くばかりで行動せず、現状維持を選択していたのは自分だった

こんな職場環境でも、唯一心を許せる先輩ができました。

しかし、ある日「俺、転職するわ」と告げられました。
この環境の息苦しさは、先輩も同じように感じていました。

自分も先輩同様に、できることなら辞めたかった。

でも、他の会社で使えるようなスキルも資格も自信もない自分が、
この会社を退職してどう生きていくのだろうか。

先輩のように、転職できる自信が全くありませんでした。

結局、この環境が嫌だ嫌だと嘆くばかりで、
現状を変えるための行動は何もしていなかった。

問題や嫌なことから逃げ続けて、先延ばしにしたツケが回ってきた気がしました。

先輩は自ら転職の道を選び、「自分は現状維持の道を選んでいただけ」でした。
当時は、そんなことにも気づけておらず、会社に人生を委ねていました。

その後は、退職した先輩の影響で、玉突き的に仕事がこちらへ回ってくることに。

また、先輩の穴埋めで補充した後輩の指導役にも選ばれてしまい、仕事量が一気に倍増しました。

周りは相変わらず「我関せず」で、フォローをしてくれる様子もなく、かと言ってこちらから相談できる人もおらず…仕事も苦しさも、全部1人で抱え込む状況になっていました。

「もう一人じゃ無理です!誰か助けて下さい!お願いします!」
と、言えていたなら、何か状況は変わったかもしれません。

でも、結局最後まで自分は現状維持を選択し、誰にも言えませんでした。

そして、この状況のまま年度末の本決算業務が重なり、毎日終電間際に帰る生活を繰り返すことに。
4月も終わりに近づく頃、心身ともに限界が近付いていました。

行動するかどうか、決断の決め手は最後の最後まで「他人軸」だった

この日も残業を終え、電車は0時前に自宅最寄り駅に到着。

2階のホームから1階へと続く、長い階段をふらふらと歩きながら、
「このまま足を踏み外して転がり落ちたら、楽になれるんじゃない…?」と誰かが囁いた気がしました。

この時の僕には、天使の囁きでした。

気づいたら、金曜の夜に実行すると決意し、シミュレーションをしていました。

転がる間に掛けているメガネは壊れるだろうからと、予備の眼鏡をカバンに用意しました。
金曜を選んだのは、土日は親も会社も休みだから、平日よりは負担を掛けないだろうとのよく分からない解釈。

既にまともに思考できる状態ではありませんでした。

決行の金曜日、終電間際の電車が駅に到着しました。
この日を境に、「自分は生まれ変わるんだ」と完全にHighな気分になっていました。

そして、足を踏み外すスタート地点まで到着。

ぼやけた視界の先に、階段の踊り場で電話をしている人を発見。

「このまま転がると、この人を巻き込んでしまうかも」と、
積年の「他人へ迷惑を掛けてはいけない」ブレーキが無意識に掛かり、一度ホーム側へUターン。

数分後に戻るも、踊り場の電話の人は変わらずいました。

結局、この日は何も起きませんでした。
自分では何も変えられませんでした。

「人がいたから」を言い訳にして、気づいたらいつも通り階段を降り始めました。

自分の不甲斐なさに、全身の力が抜けてしまいそうでした。

今にも自然と膝から崩れ落ちそうになりながらも、倒れないよう確かな足取りで階段を降りました。

きっと電話の人がいなくても、自分の身体を自ら傷付ける選択なんてできなかったと思います。

ただ、そう思って踏みとどまったのではなく、最後まで決断を他人に委ねていた自分に対し、
失望し涙が溢れていました。

自責の念が限界を突破。意識を失い、気づいた時には救急車へ

翌週の月曜日。

いつも以上の憂鬱な朝。

「自分は何も変えることのできない人間だ…」
「いつまでこんな自分を生きるんだろう」…
「何でこんな人生になったんだろう…」

自己嫌悪の悪循環が止まりませんでした。

気づいたら会社の最寄駅まで到着していました。

「どうすれば良いの…?ああ、もう何も考えたくない…」
と思った瞬間、視界が真っ暗に。

改札前で意識を失ったらしく、気づいた時には救急車の中でした。

そのまま病院で精密検査を受けました。

頭を打っていたようですが、幸い異常はありませんでした。

点滴を打ったり手当を受けてから帰宅。
そして、翌日から休職することになりました。

休職して初めて受けた、心が癒されなかったカウンセリング

休職期間中、会社が契約しているEAP(従業員支援プログラム)のカウンセラーを紹介され、
初めてのカウンセリングを受けることに。

指定された待ち合わせ場所は、会社のすぐ側にあるホテルのラウンジ。
最寄駅が会社と同じだったので、倒れた改札を通ることへ恐怖心がありました。

また、会社の人にも絶対に会いたくなかったので、一駅手前の駅で降りて歩いて向かいました。
やっとの思いで、何とかホテルまで到着。

しかし、そこで待っていたカウンセラーさんは、スーツ姿の男性。

その姿を見て、職場の檻の中で過ごしている感覚が一瞬で蘇ってしまいました。

カウンセリングが始まる前から、動悸が高まり、心身ともにとても苦しかったです。

この思いは面談で伝えられずに、
「もう面談しなくても大丈夫です。僕は全然大丈夫ですから」
とアピールすべく、精一杯の無理をして明るく振る舞っていました。

どうしてなのかと言うと、
「会社と繋がっているかもしれない人に、本音なんか話せない」と思っていましたし、
「こんな苦しい思いをするカウンセリングなんか、もう受けたくない」と思ったからです。

とにかく、僕が初めて受けたカウンセリングは、とても心苦しい体験でした。

休職からの早期復職。希望通りの異動からの、2回目の救急車

その後、上司と話す機会があり、仕事量と勤務時間を減らした上で、2週間後には復職することが決まりました。

当時、病院には行っていないので、正式に診断などは受けておらず、自分が客観的にどういう状態だったのかは分かりません。

今思うと、うつや適応障害など何かしら診断されただろうと思います。

また、カウンセラーには嘘を伝えていたので、そのことが、早期復職に繋がったのかもしれません。

ただ、長期で休むという選択肢も頭にはありませんでした。
とにかく、早く戻らないといけないと思い込んでいました。

この辺りのことは、正直あまり記憶にありません。

ただ、この状況を逆手に取り、面談で地元への異動希望を伝え続けたことは覚えています。
そして、半年後に異動の願いが叶うことになりました。

3年ぶりに地元の工場勤務へ戻れました。
就いた仕事は、9年近く経験してきた経理ではなく、生産管理。

「なぜ生産管理…?」と、率直に思いました。

「生産管理の担当者がうつになり異動になるから、その穴埋めらしい」と、こっそり上司が教えてくれました。
地元へ戻れる喜びはありましたが、嫌な予感しかしませんでした。

営業や生産現場など様々な部署の間に入り、原料購買〜製品出荷までの総合的な計画、日々の操業管理、トラブル対応など、着任早々に任されました。

右も左も分からない状態だったので、毎日現場に顔を出し、各担当に教えを乞うたりと、自分のできることは精一杯取り組みました。

大阪時代の檻の中と比べたら、相談できる先輩はいるし、幾分かはマシに思えていました。

ただ、この状況にプラスして、次年度の予算立案と決算業務も加わってきました。
更に、毎日のトラブル対応と各現場からの愚痴や文句を聞いてなだめたり…。

大阪で心身ともに疲弊していた自分にとって、パンクするには十分過ぎる仕事量でした。
そして、すぐに限界を迎えることになりました。

異動から4ヶ月後。
再び会社で気を失い、救急車で運ばれました。

過去の自分に対する後悔の涙、自分の人生を生きるために退職を決断

朦朧とした意識の中、鳴り響くサイレンの音が、なぜか心地よく聴こえました。
「ああ、きっとこのまま人生が終わるのかな」と死が脳裏をよぎりました。

その瞬間「これまでの人生、何だったんだろう…」と、後悔の思いが涙に溢れていました。

その後、今度は「うつ病」と診断され、休職することになりました。
ただ、今回は復職する気持ちにはなれませんでした。

「このまま死んだら絶対に後悔する」
「もう後悔だらけの人生はいやだ」
「会社や誰かに人生を委ねず、自分の人生を生きたい」


先のことは何も決まっていないし、すぐに働ける状態でもありません。

けれど、自分で自分を守るため、自分の人生を生きるため、1ヶ月後に退職しました。

カウンセリングへの憤怒からの奮起、「自分がカウンセラーになる」と決意

退職後は、実家に戻り療養することになりました。

実家では、母から毎朝の庭の水やり、掃除、朝食か夕食作りの役割を与えられました。

仕事を失い、所属先や肩書など、何もかも失った自分には「何か役割があること」がとてもありがたかったです。

ある日、近所に「うつ病回復カウンセリングルーム」があることを知りました。
そこで目にしたのは、「1〜2年の期間を掛けて、数百万円が必要」とのことでした。

無職になり、うつで療養中の身としては、到底受け入れられませんでした。

「バカにしてる?治るより先に、貯金が無くなっちゃう。そもそも2年もあれば自然に治るんじゃないの?」と率直に思いました。

元々カウンセリングへの不信感を持っていた上に、カウンセリングの相場感や価値、うつの治療期間に関して、無知だった自分には、ただただ腹立たしかったのです。

それでも、この怒りが原動力となり、
「それだったら…自分がカウンセラーになって、自分と同じように苦しんでいる人を助ける!」
と奮い立ちました。

また、大阪で初めて受けたカウンセリングも蘇り、
「自分だったら、相談者に対してあんなツライ気持ちに絶対にさせない!」
「もっと相手のこと考えてできる!」
と完全にスイッチが入りました。

この時、人生で初めて、自分の中から「やってみたい」と気持ちが湧き上がった瞬間でした。
すぐに今の自分でも取れそうな資格を調べ、「国家資格キャリアコンサルタント」の取得を目指すことにしました。

自分らしい人生のスタート

国家資格取得へ向けて、繰り返す悪循環を断ち切れた仲間の存在

週1回の通学で、半年ほど掛けてカウンセリングを勉強しました。

知識としては「なるほど」と思うことも多かったのですが、これを実際に使えるのだろうか不安でした。

授業も後半になると、実際にカウンセラー役をやってみる「模擬カウンセリング」の授業がありました。

皆が見ている前で実践すると思うと「上手くやれる自信がない…」「人前で失敗したくない…」不安な気持ちが高まり、学校の前でUターンして、欠席の連絡をしたことがありました。

カウンセラーへの思いとは裏腹に、
「やっぱり自分はダメだ」
「昔と何も変わっていない」
「きっと向いてないんだ」

と悪循環に陥っていました。


それでも、必要出席日数をギリギリでクリアし、模擬カウンセリング試験も何とかクリアできました。

そして、卒業認定を取ることができ、本番の資格試験を受けられることに。

ただ、この時には既に諦めモードになっていました。

授業への対応でいっぱいいっぱいで、試験のことまで考えられていませんでした。
合格する気がせず、学科試験の勉強を全くしていませんでした。

学科試験の3週間前、学校で模擬試験がありました。
100点満点中で、合格ラインは70点以上。

僕の結果は、たったの30点。
半分にも達しておらず、客観的にも「無理だ」と分かり、諦めがつきました。

しかし、半年間一緒に勉強した同期の仲間が
「せっかくここまでやってきたんだから、最後まで一緒にがんばろうよ」
と声を掛けてくれました。

どうしようか悩みました。

「今さらがんばっても、どうせ無理だよ…」という自分と、
「本当にここで、諦めていいのか…?」という自分。

葛藤していました。

そして、「じゃあ、お願いがあるんだけど…」と同期に切り出しました。
「毎日、今日やった勉強の報告をさせて欲しい」とお願いしました。

いつも1人で何とかしようとするけど、きっとそれだと今回も挫折するだろうと。
だから、仲間が見守ってくれる環境を作って、一緒にがんばっている状況にしようと思いました。
同期は了承してくれて、試験までの残り3週間だけ一緒にがんばることにしました。

この3週間は、水やり、そうじ、ご飯作り以外は、毎日10時間以上勉強に集中する生活でした。
毎日夜に「今日やった勉強」の連絡を入れ、フィードバックをもらいました。

勉強で缶詰なので、とても苦しい日々でしたが、日に日に理解も深まり、充実感もありました。
また、「3週間だけ」と期限があったことで、何とか最後までやり抜くこともできました。

残り3日を切ったあたりでは、過去問でいずれも合格点以上の点数が取れていました。

そして、迎えた試験当日。
手汗でシワシワの解答用紙でしたが、無事に終えられました。

2週間後の実技試験(試験管の前での模擬カウンセリング)も、直前に一人カラオケで声を出す練習をしてから臨み、こちらも何とか無事乗り越えられました。

そして、結果発表…

合格。

同期の皆も、一緒に合格できました。
1人では間違いなくこの結果には辿り着くことができず、
一緒にがんばる仲間の存在の大切さを知ることができました。

資格取得へ至った後日談。カウンセラーになれていた初めての日(DAY1)

後日、一緒に合格した同期に、
「どうして、あの時に一緒にがんばろうと言ってくれたの?」と尋ねました。

実は、僕が試験勉強をすると決めた後、同期は、自分がキレイにまとめていたノートのコピーを全部渡してくれました。

して、僕は分厚いテキストや参考書は見ずに、このノートに書いてあることだけをひたすら勉強して、合格できました。

感謝してもしきれません。

一方で、疑問でした。
なぜ、ここまでして、僕に手を差し伸べてくれたんだろう?と。

試験から数ヶ月前、模擬カウンセリングの授業がありました。

この日、同期がカウンセラー役として、皆の前でカウンセリングをしました。
しかし、本人的には上手くできず、かなりショックを受けているようでした。

その日の帰り、僕と同期は、駅の改札前で40分ほど立ち話をしました。

話をしたというよりは、同期が涙ながらに語るショックだった話をただただ聴いている感じでした。

この日のことが、とても印象的だったようで、その時に
「あなたは、人の苦しみに寄り添える人。だから、きっとカウンセラーに向いている」そう思ってくれたらしいです。

だから「簡単に諦めてほしくない」と僕に声を掛けてくれた。

僕は当時、カウンセリングの練習、模擬、試験、いずれの場面でも、
「(自分が)学んだスキルを上手く使えるかどうか」
「(自分が)周りからどう見られているかどうか」
など、「自分」にばかり意識が向いている状態でした。

カウンセリングをしている間、相手の話を聴いて、相手のことを考えているようで、実際は「相手」には意識は向いていなかったということです。

ただ、あの日の同期の前の僕は、いつも湧いてくる「自分への意識」は全くなく、ただただ純粋に「相手に意識」を向け、話を聴いていました。

だからこそ、自分の中で「相手に特別なことをした」気持ちがありませんでした。

相手が寄り添って欲しいと思っている時は、アドバイスなどせずに寄り添い続けること。
何か特別なことをしなくても、それだけでも癒やしになること。

あの日の僕は、カウンセラーとして確かな一歩を踏み出していたことを、同期を通して教えてもらいました。

そして、カウンセラーとしての大切な在り方を学ばせていただきました。

再就職。相談員として、自分らしい働きで人生を再スタート

資格取得後(うつ療養開始から1年4ヶ月経過)、通院先の医師から就労の許可を得られました。

相談員として働ける職を探しに、ハローワークへ行きました。

そこで「国家資格キャリアコンサルタント資格必須、週3日〜OK」の就労支援相談員の求人を発見。

すぐに応募し、2度の面接を経て、採用となりました。
新しい職場で相談員として、自分らしい働き方をスタートさせることになりました。

就労支援=就職相談、ではない。人が悩む内容は千差万別

相談員の仕事は、思いのほか順調にできました。

学校の授業や試験でのカウンセリングとは違い、第三者から見られることがなく、相談者さんと1対1で向き合える環境が大きかったんだと思います。

「就労支援」=「就職の相談」だと思っていたのですが、実態はそうではありませんでした。

個人の悩み
(精神疾患、持病、障害、グレーゾーン、自信がない、自己肯定感が低い、不安が強い、行動できないetc)だったり、
・家族の悩み
(子供のひきこもり、親の離婚・介護・ネグレクト、貧困etc)だったり、
相談者さんによって千差万別の悩みがありました。

就労支援の相談員として、就職というゴールには導けても、
「就職だけの支援で終わってしまって良いのだろうか?」
「就労支援が本当にしたいことなのだろうか?」

と、疑問が湧き出しました。

そして、今後の働き方について色々と考え始めていきました。

カウンセリングスキルの限界を感じ、心理療法を学ぶ

キャリア支援のスキルだけで、多様な悩みへ対応することは早々に限界を感じました。
そこで、心理療法の門を叩くことにしました。

そこで学んだのは、イメージを活用したり、感情や体の感覚に焦点を当てたりと、今までとは違うアプローチでのカウンセリングでした。

単純に、「とても面白い」と思いました。

今まで学んできたことは、思考・考え方を変えるアプローチに偏っていましたが、
今回学んだことは、色んな心理療法を交え、自由に発想し、過去や未来へも行き来して、最後には解決へ向けて具体的な動作化までを導くものでした。

僕が求めていたものは、これだと確信しました。

そんな学びを得ることができ、カウンセリングへ対して一気に世界が広がりました。

16歳の時に見た美瑛の丘、あの時も世界が広がった感じがしましたが、
今後は360度見える景色が、虹色に染まっていく感覚でした。


そして、就労をゴールにした支援に拘らず、もっと幅広い支援がしたいと思いました。

心理療法を学んだことが、自分自身を救うことに繋がっていた

心理療法を学ぶ中で、副産物的に、とても大切な気づきがありました。

まずは、自分自身の過去の生きづらさが、HSP気質な部分やアダルトチルドレンの要素に起因していたんだと気づけた点です。

今まで、自分の内向的な性格や心の弱さが原因だと思っていました。
ただただ「自分が悪い」のだと。

もちろん、そうかもしれないけど、そうではないかもしれない。
たったこれだけのことかもしれませんが、選択肢が増えただけでも、救われた気持ちになりました。

また、過去の苦しみ、その時々で起こる不安や悪循環に陥りそうな時、自分に対して心理療法を使うことを覚えました。

そうすることで、自分自身がとても楽になれたり、苦しさから早く脱出することができるようになりました。

色んな相談に対応できるようにと、相談者さんのために心理療法を学んだ結果、自分の悩みや問題が、自然と解消・解決に向かっていきました。

現在の活動状況と今後への思い

現在のカウンセラーとしての活動状況について

現在は、下記のように様々な悩みや生きづらさを抱えている方へ向けて、カウンセラーとして活動をしています。

☐ 漠然とした生きづらさを感じている方
☐ 職場で息苦しさを感じながら頑張っている方
☐ アダルトチルドレンにより苦しんでいる方
☐ HSPの生きづらさで悩んでいる方
☐ お子さんの不登校・ひきこもりで悩んでいる方
☐ うつ状態から抜け出せずに苦しんでいる方
☐ 自分らしく生きられていないと感じる方
☐ 自分の幸せの見つけ方が分からない方

など、様々なお悩みや苦しみを抱えた方へ向けて、「あなただけの幸せを一緒に探すカウンセリング」を行っております。

これまで、のべ人数1,100名以上の方にカウンセリングで関わらしていただきました。
お客様の具体的な声や変化につきましては、下記を参考にしてみて下さい。


僕自身がそうでしたが、苦しみや迷いの渦中にいる時、自分1人で冷静に判断・決断・行動をすることは、とても難しいことです。

また、そんな時だからこそ、
「そんな考え方を変えなさい」と言われたり、
「ありのままの自分を愛しなさい」と言われたり、
「感謝の気持ちを持ちなさい」と言われたり…

そして、自分なりに実行はしてみるものの、苦しみから抜け出せたのかというと…
多くの場合は、難しいと思います。

僕自身も、そうでした。

考え方を変えたり、ありのままの自分を愛し、感謝の気持ちを持てるようになったのは、
僕自身が幸せに生きられるようになった「」からです。


だから、考え方を変えられないこと、自分を愛せないこと、感謝の気持ちを持てないことで、どうか自分を責めないで下さい。

過去の自分、親、兄弟、親族など、許せない人や出来事に対し、無理やり許そうとかポジティブに捉えようとしなくても大丈夫です。

まずは、あなた自身の幸せを知り、あなた自身が幸せになることを優先して下さい。

なぜなら、あなたが幸せになればなるほど、周りの人や状況も変わっていくからです。
周りを意図的に変えることはとても難しいことです。

でも、あなた自身だけなら変わることができます。

だから、まずはあなた自身の幸せに気づき、
あなた自身が幸せを感じながら生きられるようになって欲しいのです。

そうすれば、自ずとあなたを中心にして、周りにも幸せはきっと広がっていきます。
そのような幸せの連鎖、善循環が広がることを僕は願っています。

そして、そのような社会を作れるようにと、まずは自分ができる範囲で活動をしているところです。

なぜ「一緒に幸せを探すカウンセリング」なのか?

僕が今こう思えているのは、1人でがんばってきたから!
では、ありません。

僕の転機には、常に「誰かが一緒」に寄り添ってくれていました。

高校中退後、父とは高校見学、母とは北海道旅行へ。
資格試験は、同期の仲間が支えてくれました。

そして今は、この活動を応援してくれる妻がいます。
また、家族も再び応援してくれていますし、カウンセラー仲間もいます。

「人間」は、字のごとく「人と人の間」で生きています。
決して1人きりでは生きていけません。

1人で考え、1人でがんばる時間はもちろん大切です。
僕自身、今でも1人で過ごす時間をとても大切にしています。

でも、1人で全部を抱え込まなくても良いんです。

近くに相談できる人がいるならば、まずはその方に話を聴いてもらって下さい。
1人でどうしようもできないことでも、信頼できる人と一緒なら乗り越えられる時もあります。

僕自身がそんな体験をしてきました。

1人で何とかできたことも確かにありました。
でも、1人では何とかできずに、苦しみ病んでしまったこともありました。

そんな時に、支えになったのは「人」でした。

人との関わりに、たくさん苦しんできましたが、
人との関わりに、たくさん救われてきました。


そんな思いから「一緒に幸せを探すカウンセラー」として、活動をしています。

「あの時、こうしていれば…」
「あの時、逃げずに立ち向かっていれば…」
「あの時、助けて!と言えていたら…」

そんな後悔ばかりの日々を僕は過ごしてきました。

そして、「次こそは」と思うものの、
「今さら何やったって…」
「今からがんばっても…」
「今までダメだったから今回もどうせ…」

と囁く自分がすぐに現れて、結局は何も変えられない日々を繰り返してきました。

でも、心理療法を学び、人との関わりを通して実践する中で、この悪循環を断ち切ることができました。


その結果、多くの変化が起きて、自分らしく生きられるようになっていきました。

だからこそ、今まさに苦しみの渦中にいる方へお伝えしたいです。

これまで、ツライこと、苦しいこと、何度もあったと思います。
そんな中でも、ここまで本当によくがんばってきましたね。

でも、これ以上1人でがんばろうとし過ぎないで大丈夫です。
誰かに助けてもらっても良いんですよ。

どうか、ほんの少しだけ勇気を出して、助けを求めてみて下さい。

周りに迷惑を掛けたくないあなたは、
「そうは言っても…」と仰るかもしれませんね。

そんなあなたへ、
こんな問いかけを、自分にしてみて下さい。

「今の苦しみから抜け出した後の未来には、どんなあなたが居ますか?」
どんな姿で、どんな表情で、どんな生き方をしていますか。
今との違いなど、できるだけ具体的にイメージしてみて下さい。

「その未来のあなたは、今のあなたへ何と声を掛けてあげますか?」
今の苦しみを抜け出しているあなたから、今の自分へ贈る言葉。
労いの言葉?アドバイス?何を伝えてくれているでしょうか。

「その言葉を受けて、今のあなたはどう感じましたか?」
あなた自身の言葉、素直に受け取れたでしょうか。
感謝の気持ち、反発する気持ち、どんな気持ちでしょうか。

「そして、今のあなたが、これからできることは何ですか?」

どうでしたでしょうか?
あなたの心や身体、感情に、ほんのわずかでも何か変化が起きませんでしたか?

それが、変化の兆し、変化の種です。

その種を一緒に育て、本来のあなたらしさを取り戻していきませんか?
そして、あなたらしい人生を共に歩いていきましょう。

あなたが子供の頃、一番最初に思い描いた「将来の夢」は何ですか?

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

最後に、夢の話をさせて下さい。

あなたは、自分が一番最初に思い描いた「将来の夢」を覚えていますか?

僕が覚えている一番最初の夢は「穴ぼこになりたい」でした。
当時の憧れのヒーローや職業ではなく、「穴」という存在でした。

大人になっても忘れられず、何で「穴ぼこ」なんだろうとずっと引っ掛かっていました。

根暗な性格や心の闇を示唆していたのかも?
もしかしたら、人と関わって生きることに苦しむと感じていたのかも?
だから、いっそのこと穴になって人を落として苦しめてやりたいと思っていたのかも?

このような感じで、この夢を肯定的に捉えることが全くできませんでした。

月日が経ち、カウンセラーになったある日、この夢をまた思い出しました。

そこで「この夢は、一体何を意味しているのだろう?」と、自分自身に心理療法を使ってみました。

すると、現れたのは「土管」でした。

夢を描いた当時、ファミコンのスーパーマリオブラザーズが流行っていました。

ゲームの世界では、マリオが「穴ぼこ」に落ちたら、即ゲーム終了です。

ただ、ゲームの中に「土管」が出てくるのですが、ある土管に落ちると、今までいた場所から違う場所や違う世界にワープができるんです。

「これだったのか!」と思いました。

「穴ぼこ」が「土管」に置き換わったことで、夢の捉え方は180度変わりました。

穴ぼこは、入口から底までの全体が真っ暗な空間のイメージでしたが、
土管には、暗闇の先に「光」があります。

人を落として苦しめたい訳ではなくて、むしろ反対でした。

まさに何かで悩んだり、苦しみの渦中にいる人を、
カウンセリング(夢の穴ぼこ→土管)を通して、その人の希望する未来、世界に連れていきたいんだと。


こう捉えられたことで、幼少期の自分の夢を肯定的に受け取ることができました。

過去を振り返ってみると、確かに真っ暗闇の中にいた時期も多かったと思います。

自分という存在が何者か分からず、自分を探しもがき苦しんでいる期間が長く、この悪循環という暗闇からいつ抜け出せるんだろうと、ずっと思っていました。

でも、これらの経験すべてが、カウンセラーになる上で必要なものだったとしたら…

そして、ここでも自分自身に対し、心理療法を使ってみました。
すると、次に現れたのは「オセロ」でした。

このプロフィールの中でも話してきた、過去の苦しかったエピソードの1つ1つが、オセロの「黒い石」。

だから当初の盤面は、自分の心を表すように、ネガティブな思いが満ちて、居心地の悪い暗闇の黒一色。

けど、そこに「カウンセリング」「心理療法」「大切な人」といった、心地良い「白い石」を1つずつ置いてみると…

すると、黒い石を1つずつ白にひっくり返すことができ、盤面全てが白い石にひっくり返りました。

そうできたことで、自分の過去を丸ごと受け入れることができました。

そして、これらの経験全てが「カウンセラーになる上で必要なものだったんだ」と腹落ちして、過去のできごと、経験、出会いなど、全てに「ありがとう」と感謝することができました。

現在は、黒も白も両方を大切にしています。

「黒があるとダメだから、白にしなくては」とは思っていません。

それは、どちらも僕には必要で、どちらもあってこその僕だと思えているからです。

短所も長所もあってこその自分。
闇も光もあるのが自分。

それが、ありのままの自分。

それを、無理やり変えようとか、直そうとするから苦しかったんだと気づきました。

「土管」「オセロ」の話は、僕が実際のカウンセリングでも行う「イメージ療法」を使って出てきたものです。

過去の事実は変えられないけれど、イメージを使うことでその時の解釈については、変えることができます。

それにより、過去の捉え方、受け止め方が変わります。

もし、過去の延長線上の現在を生き、未来もその延長線上だろうと思っているとすれば…
イメージの力で過去の捉え方を変えることで、現在の生き方が変わり、未来もきっと変わっていきます。

イメージを使うカウンセリングは、あくまで一例ですが、その他にも必要に応じて様々な心理療法、ワークなどを用いてカウンセリングを進めていきます。

少しでも興味を持っていただけたのなら、ぜひ体感していただければと思います。

カウンセリングルーム「稲穂」に込めた思い

現代は、コスパ(コストパフォーマンス=費用対効果)、タイパ(タイムパフォーマンス=時間対効果)が叫ばれ、いかに効率的、短期的に結論、結果、価値を出せるかが求められています。

誰もがSNSをやっていて、良くも悪くも情報が溢れ返る、情報過多の時代です。

また、次から次へと新しい情報がどんどん流れていく、スピード重視な時代でもあります。

だからこそ、じっくりゆっくりと、あなた自身のことを考える時間を持って欲しいのです。
それは、周りに流されずに、あなた自身を大切にする時間です。


そして、その時間を通して、周りに振り回されない、あなた自身の幸せに気づき、
自分らしい人生を歩んで欲しいと切に願います。

稲穂のように、時間を掛けて大地に根を張り、真っ直ぐと天に向かって成長をしていく。

時には、風雨に晒されながらも、それでも倒れることなく、しなやかに生きていく。

稲穂のように、実れば実るほど、頭を下げていく。

その姿は正に謙虚。虚勢を張るでも、卑下するでもなく、ありのままの自分の、素直な心で生きていく。

稲穂のように、周りの仲間と共に成長し、一緒に実りある人生を生きていく。

これが、僕の在りたい生き方です。

つまり、自分軸で生きながら、謙虚な心を忘れない。

周りの個を尊重し、愛が溢れる世界で生きていく。

そんな思いを込めてできたのが、カウンセリングルーム「稲穂です。

あなただけの幸せという名の「穂」を実らせ、一緒に育てていきましょう。

Age is just a number (年齢はただの数字)
一歩踏み出すことに、「遅い」なんてことはありません。

できない理由を探すのはもうやめて、今のあなたにできることを探していきませんか?
そうすればきっと、あなたらしく生きることができる。

僕はそう信じています。